2010/03
佐賀の技術推進者 佐野常民君川 治



佐野常民記念館 JR佐賀駅から早津江行きのバスに乗ると、約40分で佐野常民記念館近くのバス停に着く。
 佐野常民記念館は有明海にそそぐ早津江川に面して作られた立派な建物だ。早津江町が河畔を佐野記念公園として整備し、19億円の費用をかけて2004年にオープンした。
 ここは旧佐賀藩三重津海軍所のあった縁(ゆかり)の地で、海軍の教練所と造船所があった。造船所では佐野常民が日本最初の蒸気軍艦凌風丸を建造した。
 記念館展示室には常民の生涯や活躍した状況、記念の品々が展示説明されており、さらに映像ホールでは4面マルチビジョンで常民の生涯を説明している。
 記念館最上階のロビーから早津江川や造船所跡地の公園が展望でき、ボランティアの女性が冷たいお茶やお菓子のサービスまでしてくれる。
 佐野常民の生誕の地もすぐ近くにある。

佐賀市にある佐野常民縁の地
*佐賀藩理化学研究所跡の碑
  田布施川の川畔
*築地反射炉跡
  日進小学校の校庭
*佐賀七賢人碑
  佐嘉神社境内
*生誕の地碑
  佐野常民記念館の近く
 旧佐賀藩七賢人の一人、佐野常民は幕末に蘭学を修業して大砲鋳造や蒸気軍艦を建造し、維新後は海外の万国博覧会に出席して日本の工芸のPRと海外技術の習得に努めた政治家である。
 佐野常民は佐賀藩士下村三郎左衛門の5男として1822年に生まれたが、11歳のときに親戚で佐賀藩主の侍医佐野家の養子となり医学の道を進んだ。
 最初は藩校弘道館で学んだが、養父が藩主鍋島斉直に従って江戸に出たので常民も一緒に江戸に行き、古賀洞庵の塾で学んだ。25歳になって京都の広瀬元恭の時習堂に入門して蘭学と化学を学び、2年後には大阪に出て緒方洪庵の適塾に入門する。さらに2年後には和歌山の華岡青洲春林軒に学び、最後は再び江戸に出て郷里佐賀出身の蘭学大家伊東玄朴の象先堂に入門した。とにかく勉強の好きな人だと驚くが、勉学は藩からの指示または許可によるものだから、佐賀藩としては既に佐野常民を医者としてではなく技術者として活用したかったのだと思われる。本人にも藩の意向が伝わっていたのかも知れない。
 1852年に理化学研究を進める精錬方の主任を任されると、京都の時習堂で学んだ仲間の田中久重、中村奇輔、石黒寛二らをスカウトして蒸気機関の研究を始める。最初は蒸気機関車や蒸気船の模型を作りながら研究するが、目標は蒸気軍艦の製造である。蒸気機関以外では電信機や火薬、砲弾の研究を行っている。
 幕府が長崎に海軍伝習所を開設すると、佐野常民を初めとして技術者・水夫48人が参加した。ここでは物理・化学・数学・天文学などの基礎的な学科と、蒸気機関・航海術・砲術などの実学の伝習を受け、蒸気機関の修理などを体験できた。
 三重津の海軍所が設立されるとその責任者となり、オランダから購入した飛運丸、電流丸、イギリスから購入した甲子丸、皐月丸、猛春丸、延年丸などで海軍教練を初め、軍艦の建造にも取り掛かる。
 1865年日本最初の蒸気船凌風丸が完成した。これに対しては薩摩藩が1855年に建造した雲行丸、幕府・水戸藩が1862年に建造した千代田形が最初の蒸気船であると反論があると思う。
 佐賀の造船所では蒸気機関の研究を自ら行っている。小型の蒸気機関で実験をし、オランダから購入した蒸気船電流丸の蒸気機関を自ら製作した蒸気機関に置き換えて実用性を確認するなど地道な研究を積み重ねており、自力による蒸気船建造としては最初と評価して良いと思う。
 佐賀藩がこれほどの技術を蓄積できたのは、幅広い知識を取得してリーダシップを発揮した佐野常民を中心として、広瀬元恭の元で学んだ化学者の中村奇輔、石黒寛二がおり、からくり儀右衛門の異名を持つ田中久重や福谷啓吉などの技術者がいたからである。田中久重は後に工部省の電信機製作に携わり、東芝の前身となる芝浦製作所を設立している。中村奇輔、石黒寛二も維新政府の工部省の技術者として活躍している。
 1867年に開催されたパリ万国博覧会には幕府の他に薩摩藩と佐賀藩が参加した。佐賀藩責任者の佐野常民は伊万里焼など佐賀の特産品を展示するのみならず、ヨーロッパの文化を直接肌で受け止めた経験が次の飛躍につながっている。
 維新政府では大蔵卿、農商務大臣、元老院議長、枢密顧問官などを歴任しているが、とくに西南の役のときに負傷兵を敵味方の区別無く治療した博愛社の設立が、現在に残る功績である。博愛社は1887年に日本赤十字社となり初代社長を務めている。博愛社の設立に政府内部からの反対意見を押し切って信念を通したのは、ヨーロッパでの赤十字活動を見聞してきたためであろう。
 佐野常民は1872年に博覧会御用掛となって博覧会出展の準備を担当し、副総裁に就任して1873年のウイーン万国博覧会に出席して指揮を執る。各国の出展品や技術状況を詳細な報告書にまとめている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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